「貢献度」がすべてでいいのか? 日本代表対エクアドル代表


エクアドルにとっての日本戦とは

遠藤の離脱で4バックの構想を却下したジーコ。ディフェンスリーダーの宮本は慣れ親しんだ3バックの真ん中でキッチリとラインを統率して見せた【 Photo by 大友良行 】
 エクアドルという国は、日本から最も遠い国のひとつである。何しろ日本から見て、ちょうど地球の反対側にあるのだ。今の季節は雨季で蒸し暑く、時差はマイナス14時間。しかも両国を結ぶ直行便がないため、旅人は気が遠くなるくらいの移動時間を強いられる。今回、来日したエクアドル代表も、待ち時間を含めておよそ50時間の旅程だったそうだ。そこで私は疑問に思うのである。果たしてエクアドルにとり、そこまで大変な思いをして日本とのアウエー戦に臨むことに、どれだけの意義があったのだろうか。

 今回がワールドカップ出場2回目となるエクアドル。グループリーグで対戦するのは、順番にポーランドコスタリカ、そして開催国のドイツである。ヨーロッパが2チームに、中米が1チーム。ゆえに彼らは今年に入って、1月25日にホームでホンジュラス(1−0)、3月1日にアウエーでオランダ(0−1)とテストマッチを行い、大会直前の5月24日にコロンビアと、28日にスロバキアと(おそらく開催国ドイツで)対戦するのは、非常にまっとうなマッチメークであるといえよう。問題は、この日本戦である。エクアドルの立場になって考えれば、このタイミングでわざわざ地球の反対側まで移動して日本と対戦することについては、誰もが少なからず違和感を覚えることだろう。

 結局のところ、彼らの(というよりエクアドルサッカー協会の)主たる目的が、日本と対戦することで得られる、いくらかのギャランティーであったことは間違いないだろう。こうした話は、何もエクアドルに限らず、南米各国に共通するものである。
 去る3月1日、ブラジル代表がマイナス15度とも言われたモスクワでロシア代表と親善試合を行ったが、背景にはロシアン・マネーの存在もうわさされているし、何年か前にアルゼンチン代表がリビア代表とのアウエー戦に「招かれた」のも、似たような理由によるものだった(ちなみにこの試合では、カダフィ大佐の息子もプレーしている)。

 強くて美しい南米サッカーは、その一方で、経済的な困難というものを宿命的に担わされている。したがって、当然ながら選手たちの海外志向は強く、ナショナルチームもまた、自分たちの強化に直結しない(時には阻害しかねない)マッチメークにも応じなければならないのである。そう考えると、今回のエクアドルが1.5軍以下のメンバーしかそろえられなかったことについて、私は彼らを責める気には到底なれない。むしろ日本代表とそのサポーターは、本大会を直前に控えて南米のチームと戦える幸運をかみしめながら、会場となる大分・九州石油ドームのピッチに臨むべきであろう。



■システムよりも選手、という判断

 そんなわけで日本代表である。
 4枚のディフェンスラインがズタズタに切り裂かれた、ドルトムントでのボスニア・ヘルツェゴビナ戦から、はや1カ月。あらためて課題が浮き彫りになったという意味では(この3年半、何をやってきたのかという問題は置いといて)、あの試合はそれなりに意義があった。そうなると当然、今回のエクアドル戦では「4バックの修正」というのが、重要なテーマのひとつとなる――というのが、現場で取材する人間の一致した意見だったし、当のジーコ自身も、そのように考えていた。と、こ、ろ、が……。

「昨日、遠藤と話して、ももの裏(の筋肉に)張りがあるということで、無理をしないようにという判断をした。彼が入ったら4−4−2になることを考えていたが、今回は外れてしまったので坪井を入れての3バックにした」

 試合前日の会見で指揮官は、4バックの構想をあっさり却下したことを明らかにした。確かに昨年のアジア最終予選でも、アウエーのイラン戦に際して「田中(誠)が出られないので4バックにする」という前例はあるにはあった。だが今回の場合は、守備的MFの遠藤がリタイアしたから3バックにする、というのだから分からない。
 本来、このチームにおいて守備的MFは、最も層が厚いはずだ。遠藤がダメなら、パッサーとしても、あるいはマーキングでもセットプレーでも、何ら遜色(そんしょく)なくプレーできる阿部がいるではないか。あるいは小野をボランチにして、長谷部を2列目に起用してもいい。むしろそうした方が、この時期のテストとしては有意義であるとさえいえよう。

 しかしながらジーコには、そうした発想が皆無であった。「貢献度の高い」遠藤がダメなら、4−4−2も却下。DFに坪井を入れて3−5−2なのである。
 思えばジーコは常々「私には、3バックも4バックも特に違いはないと思っている」と語っていたが、今さらながらにその真意が理解できたように思う。要するに、この人は本当に「人ありき」なのだ。その時々におけるメンバーの中から、自身の中での「貢献度」による序列に基づいた上位11人を選んで、ピッチに送り出す。その結果としての、3−5−2や4−4−2や3−6−1なのである。
 果たして、これを「臨機応変」と見るか、それとも「行き当たりばったり」と見るべきか。いや、そんなことを考えること自体、無意味であろう。すべては結果オーライ。実際のところ、この試合もまた、いかにもジーコ・ジャパンらしい結果に終わった。
またしても「終わりよければ、すべてよし」

出場機会が限られている選手たちが、W杯までに序列を覆すに足る「貢献度」を積み重ねることは可能なのか【 Photo by 大友良行 】
 当初、あまり見どころが感じられなかった今回の代表戦。しかし試合が始まってみると、個々の選手たちは随所で見せ場を作り、皆が生き生きとプレーしていた。

 たとえば、所属するガンバ大阪ではスタメンの機会が限られていたキャプテン宮本。この日は何度かパスミスがあったものの、それ以外は慣れ親しんだ3バックの真ん中でキッチリとラインを統率して見せた。あるいは、昨年9月のホンジュラス戦以来の登場となった玉田。名古屋グランパスに移籍した今季、得点したのはPKによる1点のみで、よくまあジーコが代表に呼び戻したものだと感心していた。しかし、この試合では久保とのコンビネーションを見事に復活させ、後半20分には小野のクロスに胸トラップから反転して、目の覚めるようなシュートを放つなど、復活に向けて大いにアピールしていた。

 とはいえ、今日の試合は何といっても三都主であろう。前回のボスニア戦を受けてのコラムで、私はこの人のディフェンスについて「思い出すだけで表情が曇るばかり」と批判した。だが、攻撃時における三都主のうまさとすごみというものは、やはり日本にとって得難い武器であることを、今日の試合であらためて実感した次第。エクアドル代表のスアレス監督も「彼はマークに長けていて、積極的に攻め上がることで、日本のプレーに幅を与えていた」と、もろ手を挙げて称賛していたくらいである。

 とどのつまり、今日のエクアドル戦では、4バックにおける課題というものは何ひとつ解決されなかった。それでも、たまさか遠藤の離脱という「ケガの功名」で3バックとなったことで(そして今回のエクアドルが、あまり積極的に攻めるチームではなかったこともあって)、大半の選手たちが水を得た魚のように生き生きプレーすることができた。
「終わりよければ、すべてよし」――現体制の日本代表を見ていて、これまで何度となく浮上したフレーズが、あらためてよみがえってくる。またしてもジーコ・ジャパンは、根本的な部分での改善がなされないまま、それでもスコア上の結果を残すことで人々の祝福を受けることになったのである。もちろん、本質的な問題は先送りされたままだし、小野が完全な復調を遂げていないことについては、今も気掛かりではあるのだけれど……。

 とはいえ、さすがにジーコも、今日の試合から大きな教訓を得たものと信じたい。それは、現在のチームは3バックのシステムこそが、最も安定しているということである。もちろん4バックのオプションを残しながらも、試合の入り方としては3−5−2が最も安定しているという事実を指揮官が自覚したならば、今日の試合は(「対南米初勝利」というレトリックなど忘れてしまうくらいに)意義があったといえるのではないか。



■ストライカーとは「水もの」である

 さて、今日の試合で唯一カタルシスを感じるシーンを挙げるなら、私にとってのそれは2トップが交代した後半32分以降であった。確かに、前線のさまざまなコンビネーションの可能性を試すことなく、一気に2トップを総取り替えしてしまうあたりが「ジーコの真骨頂」さく裂、という観はあった。だが、それ以上に、久保と玉田に代わって投入された巻と佐藤が示した「与えられた時間の中で存分にアピールしよう」という気概こそ、今日の試合で最も見る者の心を揺さぶる瞬間であったと確信する。

 そして後半40分。待望の日本の先制点は、佐藤の左足によってもたらされる。小笠原のスルーパスから、左サイドのスペースに走り込んだ三都主がゴール前にグラウンダーのクロスを供給。ニアに飛び込んできた佐藤が左足インサイドで軽く合わせ、ボールはゴール右隅に吸い込まれていく。ゴールを決めた直後、フィオレンティーナ時代のバティストゥータのように、コーナーフラッグでポーズをとる佐藤。「あれ、こんなキャラだっけ?」とも思ったが、あの瞬間の彼の心境を想像すると「無理もない」とも思った。

「本大会まで、もう時間がない。一試合、一試合を大事にしていきたい……」
 最近の選手たちのコメントを聞くと、このようなコメントをよく耳にする。だが、監督から「チームへの貢献度が高い」と評価されている選手と、そうでもない選手とでは、自ずと言葉の重みが違ってくるのは当然であろう。とりわけ、出場機会が極めて限られている背番号30番台の選手にしてみれば、どんなに自分が結果を出したところで、もはや「貢献度」を積み重ねることなどかなわぬ現状に、どんな思いを抱いていることか。

 そうした現状を最も身に染みて理解しているのが、今日の決勝ゴールを挙げた佐藤なのだと思う。彼は今日の活躍におごるどころか、むしろ冷静に現状を見つめながら、黒山の人だかりとなったミックスゾーンでこう語っていた。
「最低限の結果は出したけれども、まだまだFWでは一番下。(所属の)広島に戻って、とにかく結果を出すしかないですね。とにかく状況に満足せず、もっと上を目指したい。代表には素晴らしい選手がたくさんいるので、その中になんとか入りたいです」

 おそらく現状では、ジーコのFWのファーストチョイスは久保なのだろう。そして高原、現在けがをしている柳沢、さらには鈴木、大黒、玉田も、23人枠に近い選手であると思われる。この序列はもちろん、ストライカーとしてのタイプやポテンシャルに加えて、ジーコ体制下における「貢献度」も大きく作用している。私はいまだに、ジーコのいう「貢献度」というのがよく分からないのだが、それを「経験値」と置き換えるなら、ポジションによっては「あり」なのだと思う。とはいえ、DFならともかく、FWに「貢献度」(あるいは、そのチームにおける「経験値」)を求めるのは、どうかとも思う。

 極論するなら、FWというポジションは「水もの」的な要素を多分に含んでいる。短期決戦であるワールドカップならば、なおさらであろう。ゲルト・ミュラーロナウドを例外とすれば、歴代の大会得点王は大半が「最大瞬間風速」的にゴールを量産している。1982年スペイン大会のロッシや、90年イタリア大会のスキラッチらは、大会に出場していたかどうかさえも怪しい立場にいたストライカーであった。そうして考えるならば、いかにFWが「水もの」であるか、容易に理解できるであろう。
 もちろん私は、佐藤寿人というストライカーが「水もの」であると言うつもりは毛頭ない。そうではくて、少なくとも現時点において、佐藤は日本代表のFWの中で最もゴールのにおいがする選手の一人である、ということを強調しておきたいのである。そして、こういうプレーヤーこそが、実は本大会で大化けする可能性を秘めていると確信する。
 その点について、ジーコはどう考えているのだろう。代表FWのポテンシャルが「貢献度」の一言で片付けられるとしたら、あまりにも悲しく理不尽な話ではないか。